連続の鉄道に関する話題。
JR中央線の跨線橋が撤去の危機 街と鉄道の発展を90年見てきた「生き証人」の秘密(乗りものニュース) - Yahoo!ニュース
5/29(土) 14:10配信
JR中央線の跨線橋が撤去の危機 街と鉄道の発展を90年見てきた「生き証人」の秘密 | 乗りものニュース
2021.05.29 栗原 景(フォトライター)
JR中央本線の三鷹車両センターに架かる三鷹跨線人道橋は、建設から90年以上が経過し、老朽化のため撤去が検討されています。太宰治もお気に入りだったこの橋は、見晴らしがよいだけでなく、街にとって大事な役割を果たしてきました。
太宰治も愛した陸橋が撤去の危機
2021年5月現在、JR中央線・三鷹駅(東京都三鷹市)近くの歴史ある跨線橋の撤去が検討されています。中央線と三鷹車両センターを南北に横断する、全長93m、幅2.89mの「三鷹跨線人道橋」です。
読売新聞や朝日新聞、毎日新聞が、2020年12月から跨線橋の存廃について相次いで記事にしています。
この跨線橋が建設されたのは、1929(昭和4)年8月。三鷹車両センターの前身である三鷹電車庫が設置されるにあたり、地域が南北に分断されることから設置されました。
当時はまだ三鷹駅もなく(翌1930年6月開業)、周囲は田畑と民家が点在するばかり。跨線橋からの見晴らしは抜群で、地域の人々から「陸橋」と呼ばれて親しまれました。1939(昭和14)年に三鷹へ転居してきた作家の太宰 治もこの陸橋を愛した一人で、知人をよく案内していたそうです。
現在も、三鷹跨線人道橋は昭和初期の姿をよく残し、地域住民に親しまれています。晴れた日はたいてい電車を見に来た親子連れの姿がありますし、ここを毎日のお散歩コースにしている人も大勢います。
しかし、建設からすでに92年。戦後、1968(昭和43)年10月に一度改修されたものの、今では老朽化が深刻で、耐震性にも問題があります。このまま人道橋として維持していくには大きなコストがかかることから、陸橋を管理するJR東日本から三鷹市に無償譲渡が提案されました。「太宰ゆかりの場所」として案内板も設けている三鷹市ですが、財政的に維持していくことは難しく、2021年1月、譲り受けを断念することをJRに伝えました。
これで直ちに撤去が決まるわけではありませんが、今後はJRの判断にかかっています。
【次ページ】 分断された町をつなぎ発展させてきた
三鷹のシンボル的な存在でもあった陸橋は、戦前の航空写真にもその姿を残しています。国土地理院が公開している1936(昭和11)年9月24日撮影の航空写真には、開設から7年を迎えた三鷹電車庫の中央に、西日を受けて線路に影を落とす三鷹跨線人道橋がはっきりと写っています。
その後も、航空写真は数年ごとに撮影されており、三鷹の町がどんどん発展していく様子を観察できますが、「陸橋」はいつの時代も同じ場所で、同じ姿で写っています。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年2月には、三鷹電車庫が米軍の空襲を受けますが、陸橋に大きな被害はありませんでした。
さて、時代ごとの航空写真を見比べると、興味深いことがわかります。1936年の写真では、陸橋の周辺は田畑と雑木林が多く、民家は数えるほどしかありません。一方、戦後の1947(昭和22)年9月8日に米軍が撮影した写真を見ると、陸橋から南に向かって、民家が整然と並んでいます。
陸橋周辺は、上連雀(かみれんじゃく)と呼ばれる地域です。三鷹は、まず1657年に江戸を襲った「明暦の大火」で家を失った神田連雀町(現在の千代田区神田須田町1丁目付近)の人々が、現在の三鷹駅南側に移住し、連雀新田を開きました。その後、西側の土地を開墾して連雀前新田と呼ぶようになり、やがて江戸に近い連雀新田を下連雀、京に近い連雀前新田を上連雀と改称します。
つまり、三鷹はまず三鷹駅南口の下連雀が発展し、ついで三鷹電車庫周辺の上連雀が開かれたのです。しかし、上連雀は三鷹電車庫と中央線によって分断されていました。
昭和に入り、上連雀の宅地化が進みます。1947年の航空写真は、上連雀が住宅地として発展し始めた時期のもので、跨線橋が大きな役割を果たしていたことがうかがえます。
三鷹の人々とともに歴史を刻んできた三鷹跨線人道橋ですが、今は素人目にも相当老朽化が進んでいることがわかります。また、200mほど三鷹駅寄りには、自転車も通行できる堀合(ほりあわい)地下道があり、陸橋がなくなっても南北の往来は一応保たれます。陸橋の耐震補強工事と管理のコストを考えると、撤去が検討されるのもやむを得ないことかもしれません。
一方で、この陸橋には鉄道史的にも価値があります。建設当時は鋼鉄資材が貴重だったため、角形鋼材と併せて古レールが多数使われているのです。階段の柱や桁に使われたレールをよく観察すると、レールの刻印を読み取ることができます。そこには、1907(明治40)年から1923(大正12)年にかけての西暦年が読み取れ、製造所も日本の官営八幡製鉄所やドイツのカイザー社、アメリカのコロラド石油・製鋼会社、ベスレヘム製鉄会社、スチールトン社、メリーランド製鋼社など、さまざまな製鉄所の名前があり、明治から大正、昭和にかけての鉄道史をうかがい知ることができます。
スマホであれば金網の隙間から安全に電車の写真を撮れる(栗原 景撮影)。また、三鷹車両センターや中央線の電車を安全に見学できる場所である点も見逃せません。陸橋には、毎日電車を見に来る親子連れ・家族連れの姿があります。老朽化が進んでいるとはいえ、大人の背よりも高い金網はよく管理されており十分安全。三鷹の子どもたちは、この陸橋で「かっこいい電車」を心ゆくまで眺め、電車と鉄道に親しみを感じて育ちます。金網はそれほど細かくなく、スマートフォンのカメラなら金網に邪魔されることなく写真を撮ることができ、冬の晴れた日なら電車の向こうに富士山がきれいに見えます。
ある施設が役割を終えて消えてゆくのも、やむを得ないことではあります。ですが、電車好きの子どもを育て、町と鉄道の歴史を語りかける三鷹跨線人道橋には、価値もあるはず。JRと三鷹の人々の選択が待たれます。
【了】
三鷹市的には「口を出すなら金を出せ」だろうね。
バブル期の放漫な都市経営による「貯金を準備しなかった」失敗は
全国の自治体共通の課題。名の知れた自治体でもご多分に漏れずという所。
(今日も無職が政治を語ったぜ)
先行記事は気になっていた。
「太宰治ゆかりの跨線橋」撤去の瀬戸際、無償譲渡を提案したものの… : 社会 : ニュース : 読売新聞オンライン
2021/03/14 22:17
太宰が愛した跨線橋、撤去の危機 VRで残すなど検討:朝日新聞デジタル
平山亜理、一條優太2021年3月19日 11時49分
太宰が愛した陸橋 老朽化で存続の危機 三鷹市が一部保存検討 | 毎日新聞
2021/4/30 11:22(最終更新 4/30 11:22)
「古レール」を用いた鉄道の構造物・建築物は沢山あるよね。
宮島口駅の跨線橋も古いレールで骨組みが作られている。はず。多分。
ホームの屋根(上屋)の骨組みや敷地境界の鉄道柵への再利用も各地で見られる。
あの橋は「三鷹跨線人道橋」というのか。「全長93m、幅2.89m」意外とデカいな。
東京人だった頃、武蔵境駅・三鷹駅・吉祥寺駅の間は散歩コースだったので
(職安もあったし)よく、でもないが、渡った。
南側にあった太宰治の銘盤は撮った記憶はあるがストックから探し出せない。
橋を渡る度にバシバシ撮影しておけば良かった。
確かに(1)橋の上は、チビッ子から大きなお友達まで大人気のスポットだった。
雨でも粘っている人がいたはず。モヤが立って芸術作品っぽくなるのかな。
確かに(2)一眼レフの大口径レンズでは金網に引っかかるのか
スマホが多かった気はする。さすがに微細は覚えていない。
「明暦の大火」は『ブラタモリ』の吉祥寺の回で取り扱っていたよね?
https://kichijoji.keizai.biz/headline/2527/
2017.12.19
なぜ人は吉祥寺に住みたがるのか 「ブラタモリ」でその謎に迫る
【ブラタモリ吉祥寺】タモリ推奨の吉祥寺の歴史・地形・観光ルートまとめ #94 | とらべるじゃーな!|関東圏旅行ブログ
2021.01.13 / 2017.12.23
あれ?記憶違いかな(笑)?
中央線より南側の上連雀は住宅地なので、見るべきものは何もないが
街並みが昭和なので、通過するだけなら大丈夫。怖くてカメラは出せない。
紹介されている「地下道」は、昼間でも本当に大丈夫か?と思った薄い記憶。
夜は尚更、なかなか勇敢な者を選ぶ、なかなかなの雰囲気だった薄い記憶。
どちらかというと、中央線より北側・境浄水場までや武蔵境駅に至る「廃線跡」は
それなりにクッキリと残っているので、涼しい時期は楽しく歩ける。
鉄道愛好家(マニア、ヲタクではない)としては
三鷹駅の周辺は、鉄道産業が華やかなりし頃・古き良き時代を今に残す土地として
あと連続立体交差事業完遂と、複々線化事業の断念(頓挫・途上)の地として
静かに巡ることを推奨したい土地。
三鷹駅から境浄水場まで地図では左斜め方向に伸びる「玉川上水」に沿った散策路も
郊外を感じられる地域として懐かしい。
両岸とも舗装が土なので歩きにくかったり、木の根元が張って凸凹だったり
一部は車道を歩く必要があったり、木陰がいい感じで、変化に富んでいた。
今は都民でないので何を言う権利も無いが
「一部保存」も「VR(仮想現実)での保存」も、いらんなあ。
全体を残さない=必要が無い=役割を終えたんだよ。
これに必要な金銭は、コロナ対応で必死になっている人々に回せと思う。
そして、失って初めて喪失感に怯えるのも人間として大切と思う。
跨線橋から、マンションをナメつつ見える富士山は、いい眺めだった。
東京での一人暮らしは、本当にいい思い出。
過酷な中でいい同僚と巡り会えて生きているという実感があった。
本当に死にそうだったけど。
愛憎入り混じる記憶なのでストリートビューは余り見たくない。わら。
この雪景色・雪化粧した富士山も、ここから撮ったはず。
動画色々。
【廃止決定】中央線のあの名所を待つ未来、その難しい事情とは? @中央線三鷹駅・三鷹跨線人道橋 - YouTube
2021/10/13「Takagi Railway」
★